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<駒大ゼミの挑戦状>あなたは何を求めて学ぶ? その答えは古典の中に

あらゆる分野でグローバル化が進む今、学んでおきたい最新の学問が多々あります。でも実は、古典学もこれからの時代を生き抜くために必要な学問なのです。
そこで、文学部国文学科の山口智弘先生に、なぜ古典が大切なのかを語っていただきました。

文学部 国文学科
山口智弘先生

大学生時代、最初は理系で学んでいたが、ものよりも人に興味をもつようになり、文系の学部に入り直した異色の経歴の持ち主。近世日本の中国古典学を研究。

古典とは、繰り返し“どう学ぶべき”か論じられてきた本


古典漢文を読む上で欠かせない辞書。中国で使われる漢字は日本のものと少し異なる

「古典なんて古い本、おもしろくないし、今の時代に学ぶ必要がある?」

そんな声が聞こえてきそうですが、昔の人たちもまったく同じことを思っていました(笑)。例えば、古代中国の思想家・孔子の教えを弟子たちが書き留めた『論語』は、古典漢文の代表的なものですが、時代を超えて読み継がれていくなかで、「原文は読みづらいし、内容も教科書的でおもしろくない」という人たちが出てきました。まさに「学ぶ必要がある?」というわけです。

すると、『論語』を研究する学者たちは、「いや、おもしろくないのは原文の解釈の仕方のせいで、別の見方をすればやっぱりおもしろいんですよ」と新しい解釈を提案。これにより、『論語』は再び読まれるように。しかし、時が流れるにつれ、その解釈もまた通用しなくなる時代がやってきます。するとまた別の学者たちによって新たな解釈が生まれ、『論語』は再び読み継がれるように――。こうして『論語』は中国だけでなく、東アジア全体で読まれるようになり、やがて海を渡って日本にも伝わってきたのです。

この世から消え去りそうになりながらも、新たな解釈という息吹を与えることで、何千年という時を超えて読み継がれてきた、それが古典です。

確かに古いものですが、このように新しい側面を取り込んでこなければ、今に残っていないでしょう。私たちが知らないだけで、これまで膨大な量の書物がこの世から消え去ったはず。そのなかで生き残っているごくわずかな古典たちは、古くて新しい奇跡の書物なのです。

“自分と違う見方”が、新しいあなたをつくる


授業では今から約2,500年前の中国で書かれた古典も登場。大きな文字が原文で、小さな文字が解釈。ここに当時のものの見方が現れている

ところで、この解釈は時代や国によって驚くほど異なります。例えば、中国で生まれた解釈と日本の江戸時代に生まれた解釈とでは、時に真逆といっていいほど(笑)

こうした違いが生まれるのも、解釈というものが我々の生きている社会に深く関わっているから。江戸時代の学者が行った解釈には、当時、日本が置かれていた社会状況やものの見方などが無意識的にすべりこんでいるのです。

私の授業では、こうした古典ならではの特性にスポットを当て、なぜこのように解釈されたのか。当時のものの見方や考え方を探っていきます。古典に書かれているものは、現代に生きる私たちからすれば、「どうしてこう考えるわけ?」と不思議に思ったり、「これおかしいよ!」と理解しがたかったり。

でも、それでいいんです。自分とはまったく異なるものの見方や考え方を知ることが大事なのです。

なぜなら、グローバル化が進んだ今、ものの見方や考え方は、どこに行ってもそれほど変わらなくなってきました。これはメリットもある一方で、問題意識をもちにくくなるというデメリットもはらんでいます。みんなが同じような考え方だから、たとえ問題があってもわからない。それに気づくためには、今の世の中をちょっと突き放して見る目が必要だと私は思います。

どこに、どんな問題があるのか。問題を発見していく力を養ううえで古典は実に最適なテキスト。今とは異なるさまざまなものの見方や考え方があふれていますから。古典を学ぶ理由はまさにそこにあります。問題を発見できるようになれば、それをどうにかして改善しようとします。つまり未来を変えていく可能性がある。そう、古典学とは過去を見て、未来を拓いていく学問といえるでしょう。

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