仏教学部
生きているから「好奇心」がある
「好奇心」とは、文字通り、奇なもの(ちなみに、奇とか珍は古語ではむしろ、すぐれている意味ね。古文のポイント!)、めずらしいもの、知らないものに興味を抱く心のこと。と言ってしまうと、なんにも興味ねーよ、関係ねーよ、と思う人もいるかもしれないけれど、そのこと自体、自分のまわりのものごと、できごとを「興味ない」「関係ない」というように見ているわけで、どこまでいっても生きている限り無関係などあり得ない。
めずらしいもの(奇)でなくても、強い興味(好)でなくても、ほんのちょっとでも、自分が、自分以外のものに向きあう、あるいは、自分自身に向きあう、その自分自身の心や体の動きの動機、理由に名前をつけたのが「好奇心」ということになる。
たとえば、禅の教えでは、坐禅してその結果何かが得られるのではなく、坐禅という自分自身の実践、ただ座ってじっとしていることが自分が生きているあかしとする。生きているから坐禅をする。坐禅をするから生きている。生きているから好奇心がある。好奇心があるから生きている。坐禅も、好奇心も、自分自身の問題。自分のウンチは他人がトイレで出せないのと同じで、自分の好奇心は自分で起こし、自分で応えていかなければならないのです。
仏教学部: 熊本 英人(曹洞宗学)